無量寿寺ものがたり
お寺のおこり
時は、源頼朝による武家政権にもかげりが見えはじめた鎌倉時代末期の正和3年(1314)、無量寿寺は創建されました。お寺の北東約20キロほどのところに位置する岩井(旧岩井市、現坂東市)の城主相馬氏(そうまし=祖は千葉常胤(つねたね)の二男師常(もろつね)とされ、下総国相馬郡を領して相馬を称していました)の帰依を受け、堂塔伽藍が整備されました。開いた僧侶(開山=かいさん)は浄土宗藤田派二祖の持阿良心上人(じありょうしんしょうにん=1262‐1323)。「浄土宗」といえば現在は一つ(一派)ですが、かつては経典に対する解釈の違いなどから、いくつかのグループ(派)に分かれていました。
「藤田派」は、派祖である性心(しょうしん=?‐1292)が武蔵国藤田郷(現在の埼玉県寄居)の人であったためにその名があるといい、当寺はその本山として広い寺域を持ち、関東・東北に約300の末寺(まつじ=配下の寺院)を有していたと伝えられます。しかし藤田派は江戸時代に絶え、京都・知恩院(現浄土宗の総本山)の直属の寺院となります。
明治5年(1872)、「学生発布」によって日本の近代教育制度がスタートしますが、その翌年に無量寿寺は小学校として利用されるようになり、子どもたちの教育に資する役割も担っていたことが記録書にみられるほか、一部の部屋は村の役場としての機能も持っていたことが伝えられています。
本堂
一度お参りされればおわかりいただけますが、当寺の本堂は「新しくはないな。かといって、それほど古くもなさそう」、そう感じられると思います。
正解! 現本堂は明治19年(1887)の建造ですから、約140年。「もう」といえば「もう」、「まだ」といえば「まだ」。寺院建築といえば奈良や京都の古刹がイメージされるでしょう。寺院によっては500年、700年、いや、1000年を経てきた建物が、今なお残されています。それらに比べれば、まだまだヒヨっこかもしれません。しかし当寺本堂には、単に年数だけでは語り切れない、「ものがたり」があるのです。
明治13年の火災
お寺といえども、周りに広がる田畑での仕事が大方を占め、その収穫が生計の主であった当時をイメージしてください……。
ある日の夕刻。夕飯の支度のためにかまどに起こした火が近くにあった藁に燃え移り、わずかな時間に間口七間三尺奥行六間三尺の本堂、間口八間奥行五間の庫裏を焼け失ってしまったことが、当時の史料からわかります。幸いにも皆無事だったとのことですが、その住職、そして檀信徒の心中たるや……。察して余りあります。
仏像・仏具類、過去帳、田畑小作入付帳など、欠かせないものは救い出され、そのおかげで、いま、当寺にはそれらが残されており、貴重な歴史の「1ページ」としてとき刻んでいます。
江戸時代から明治初期にかけて、当寺檀信徒で亡くなられた方が戒名が記された過去帳は、ページが貼りついてしまっていますが、これは、火災時の消火作業により濡れてしまったためと伝えられています。
再建
当寺に残されている一枚の細長い薄い板(墨書=すみがき)。そこには、本堂再建に尽力してくださった方々のお名前が、裏面には、資金の調達に関すること、檀信徒が今でいうボランティアで建設作業に従事してくださったこと、さらには建材の一部が廃止された小学校校舎の部材を購入・転用されたことなど、その経緯を示す興味深い一端が記されています。
そうした、多くの方々の多岐にわたる協力のおかげで、火災から6年後の明治19年に現本堂は完成します。
木造平屋建て、寄棟造(よせむねづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき 建築当時は茅葺)、間口15.126メートル、奥行9.363メートル、高さ約7.5メートル。後世、入口に唐破風(からはふ)、銅板葺の向拝(ごはい、こうはい)が補われています。
内部の東側には間口1間班の小上がり土間付きの天井の低い小部屋、そこから屋根裏に上がる階段を上ると漆喰塗壁、板戸のある二階床があり、生活空間としての多目的用途が集約されている点が当本堂の大きな特徴となっています。この小部屋付近の梁をご覧いただくと、はいずれも真っ黒になっていることに気づかれるはずです。おそらく、台所があったであろうこと、そこが生活を支えるメイン空間となっていたのでしょう。当時の生活が偲ばれます。
こうして、たくさんの人々の「思い」が込められて再建なった現本堂は、お念仏の声が染み渡った、仏さまと出会えるやすらかな空間として親しまれ続けています。
〈参考文献:伊坂道子氏「無量寿寺における1886年の本堂建立について
――明治前期に試みられた地域寺院の再建」(日本建築学会関東支部研究報告集 2023/2)〉